放射能汚染問題に関する政治の主体性について
科学を理解しない人間が、政治的立場や経済的立場(利害関係)または限定された経験(情報)に基づく感情的反応によって、「児童の被曝基準(20mSv)」や「屋内退避・避難基準」、「暫定規制値(食品・水による内部被曝)」、「土壌汚染基準(チェルノブイリを参考)」について、「厳しすぎる」とか「甘すぎる」などと言って、お互いに批判を加えている。
ところが残念なことに、この批判応酬は科学論に基づかないために、収束する見通しは無いと言える。一方、科学の専門家は、これまでの世界レベルのコンセンサス(ICRP、1mSV/年、LNT仮説)に基づく限りは、現状の放射能汚染は「危険極まりない」と言わざるをえず、それでも「安全だ」と主張するような科学者は立場や根拠を明示することが出来ず、周囲からの批判に対して窮して、苦悩の表情を浮かべる他なし、という状況になっている。
したがって、すぐれた科学的見解が、論争に一定の終止符をうたなければならないのだが、いかんせん、彼ら(科学者)の立場にたつならば、ファクト・データ(疫学研究の実績)が足りなさ過ぎる、ということなのだろう。彼らの立場と実力としては、データと統計(信頼度の計算)に語らせない限り、科学的見解としては認めてもらえない、ということだろう。
宇宙が有限であるか無限であるかという議論と同じように、現実の疫学動態が、LNT仮説とホルミシス仮説の中間あたりにあるだろう(ただし、乳児・幼児・子ども・大人・老人の実効線量係数(放射能の影響度)が大きく違う)、という思いは共通していても、現代の科学者には、上記の理由から、この見解についてのコンセンサスを作り上げる実力を持っていないのだ、と言えるだろう。
今の二極化のモザイク的な状況においては、不信から過敏に反応して放射能を避けることで精神を病む人々と、無責任な管理指導下で健康を害し(将来の発ガンを高め)続ける人々の二種類を生み出してしまう可能性が高い。そして、根拠が不明瞭な「風評被害だ!」と騒ぐ声だけが、むなしく響く。今の日本においては、政治指導者に偉大なる精神が降りてきていないために、右往左往する姿だけが目立ち、将来の犠牲を最小化するための決断が下されない。「自己責任」という言葉すらも憚られている現実は、異常過ぎると言えるだろう。
――『東京電力福島第一原子力発電所の事故を受け、核兵器廃絶地球市民長崎集会実行委員会などは30日、長崎市の長崎原爆資料館で放射線に関する勉強会を開いた。専門家2人が放射線の基礎知識や事故の課題について語り、内部被曝を想定した原発周辺住民の追跡調査の必要性などを訴えた。原発の事故後、福島県で放射線対策にあたった日赤長崎原爆病院の朝長万左男院長と長崎大病院の熊谷敦史助教が講演。被爆者ら約300人が耳を傾けた。熊谷助教は、住民の選別検査で外部被曝による健康被害が確認されなかったことを報告。そのうえで、呼吸などで放射性物質を取り込む内部被曝を想定した追跡調査や医療補償基準の作成の必要性を訴え、事故前後の住民の行動記録を早急に調べて登録するよう提案した。朝長院長は、がんなどの発症確率が高まる被曝線量を100ミリ・シーベルト以上としながらも、「安全と判断できる被曝線量の確定には至っていない」と指摘した。』(読売新聞)
これから行うしかない疫学研究によってしか、すなわち、ファクト・データがそろえなれなければ(コンセンサスとしての科学的見解が築かれなければ)、政治的決断が出来ないというのであれば、あまりに遅すぎるし、無責任すぎると言えないだろうか。政治に主体性が無いのならば、国民に主体性を与える(自己責任の観点を与える)ことも、政治が真剣に検討するべきなのではないだろうか。
ところが残念なことに、この批判応酬は科学論に基づかないために、収束する見通しは無いと言える。一方、科学の専門家は、これまでの世界レベルのコンセンサス(ICRP、1mSV/年、LNT仮説)に基づく限りは、現状の放射能汚染は「危険極まりない」と言わざるをえず、それでも「安全だ」と主張するような科学者は立場や根拠を明示することが出来ず、周囲からの批判に対して窮して、苦悩の表情を浮かべる他なし、という状況になっている。
したがって、すぐれた科学的見解が、論争に一定の終止符をうたなければならないのだが、いかんせん、彼ら(科学者)の立場にたつならば、ファクト・データ(疫学研究の実績)が足りなさ過ぎる、ということなのだろう。彼らの立場と実力としては、データと統計(信頼度の計算)に語らせない限り、科学的見解としては認めてもらえない、ということだろう。
宇宙が有限であるか無限であるかという議論と同じように、現実の疫学動態が、LNT仮説とホルミシス仮説の中間あたりにあるだろう(ただし、乳児・幼児・子ども・大人・老人の実効線量係数(放射能の影響度)が大きく違う)、という思いは共通していても、現代の科学者には、上記の理由から、この見解についてのコンセンサスを作り上げる実力を持っていないのだ、と言えるだろう。
今の二極化のモザイク的な状況においては、不信から過敏に反応して放射能を避けることで精神を病む人々と、無責任な管理指導下で健康を害し(将来の発ガンを高め)続ける人々の二種類を生み出してしまう可能性が高い。そして、根拠が不明瞭な「風評被害だ!」と騒ぐ声だけが、むなしく響く。今の日本においては、政治指導者に偉大なる精神が降りてきていないために、右往左往する姿だけが目立ち、将来の犠牲を最小化するための決断が下されない。「自己責任」という言葉すらも憚られている現実は、異常過ぎると言えるだろう。
――『東京電力福島第一原子力発電所の事故を受け、核兵器廃絶地球市民長崎集会実行委員会などは30日、長崎市の長崎原爆資料館で放射線に関する勉強会を開いた。専門家2人が放射線の基礎知識や事故の課題について語り、内部被曝を想定した原発周辺住民の追跡調査の必要性などを訴えた。原発の事故後、福島県で放射線対策にあたった日赤長崎原爆病院の朝長万左男院長と長崎大病院の熊谷敦史助教が講演。被爆者ら約300人が耳を傾けた。熊谷助教は、住民の選別検査で外部被曝による健康被害が確認されなかったことを報告。そのうえで、呼吸などで放射性物質を取り込む内部被曝を想定した追跡調査や医療補償基準の作成の必要性を訴え、事故前後の住民の行動記録を早急に調べて登録するよう提案した。朝長院長は、がんなどの発症確率が高まる被曝線量を100ミリ・シーベルト以上としながらも、「安全と判断できる被曝線量の確定には至っていない」と指摘した。』(読売新聞)
これから行うしかない疫学研究によってしか、すなわち、ファクト・データがそろえなれなければ(コンセンサスとしての科学的見解が築かれなければ)、政治的決断が出来ないというのであれば、あまりに遅すぎるし、無責任すぎると言えないだろうか。政治に主体性が無いのならば、国民に主体性を与える(自己責任の観点を与える)ことも、政治が真剣に検討するべきなのではないだろうか。
テーマ : ほっとけない原発震災
ジャンル : 政治・経済
中部大学・武田邦彦先生の真摯なる科学的態度
中部大学・武田邦彦先生は、今も真摯な態度で原発事故問題について、分かりやすい解説を加えた情報を発信し続けて下さっている。このことは、私たちが放射線防護に対する、中立的で正確な理解を形作り、自己防衛していく上で非常に重要なことであるように思っていた。しかし、この武田先生に対する、世間からの批判も強いのだと言う。しかも、その批判は、放射線安全防護の専門家だけでなく、様々な方面からも加えられているようである。
――『わたくしは、福島原発事故が起こってから「1年に100ミリシーベルトまでは大丈夫だ」と言っている「その人たち」に、長い間、真逆のこと、つまり「1年に1ミリシーベルト以上は危ない」と教えられてきたのです。・・・放射線では確率論的に患者が発生するということを頭に叩きこんでおかなければならない・・・わたくしにこのように教えてくれた先生がたは、福島原発の事故が起こると突然、態度を翻し・・・たのです。・・・確かに個人的には、確率論的な患者の発生に対して批判的な学者もいましたけれども、全体としては完全に一致していたのです。・・・それを福島原発の事故が起こったからといって、急に180度転換するというのは極めて奇妙なことです。・・・できるだけ早く臨時大会を開き、「確率論的に患者が出るということを否定する」のか、もしくは「従来の立場を貫く」のか、その理由は何か、それを社会に発信しなければなりません。』(中部大学・武田邦彦「社会を混乱させる放射線医学・防御の専門家」)
しかし、武田先生の説明を聞くと、先生は自らの科学的立場(LNT仮説派・確率的影響派)を明らかにしており、その指摘は完全にフェアなものであるのに対して、科学的立場を手のひらを返すかのように変えた批判者の方がアンフェアであるように聞こえる。何度も指摘しているように、低線量・低線量率でも癌化を招くということを主張するLNT仮説派・確率的影響派は、(これが正しいか正しくないかは別にして、)科学的なコンセンサスが形成されていた。このコンセンサスに組していながら、今この瞬間に自らの科学的立場を明らかにせずに、手のひらを返すかのように無責任を発している専門家こそが卑怯である、と思う。武田先生は、科学者の責任として、LNT仮説・確率的影響説を踏襲するのか、否定するのか、を科学的に明らかにせよ、とおっしゃっているのである。
同じく、あの「涙」会見の東大大学院教授・小佐古敏荘先生に対する世間からの批判も強い。しかし、小佐古先生の問題提起に対して、東京新聞が、労働基準監督署の過去の見解を調べ、客観的な評価を加えた。これこそ、上記の科学的コンセンサスが、コンセンサスとして実際に運用されていたという証左ではないのだろうか。
――『福島県内の学校では、被ばく線量の暫定的な上限を年間二〇ミリシーベルトと設定している。この線引きに強い懸念を示し、涙ながらに「内閣官房参与」を辞任したのが、小佐古敏荘(としそう)東大大学院教授(放射線安全学)だ。・・・被ばくが原因で白血病などのがんを発症し、労災認定を受けた原発労働者は、七六年以降で十人いる。累積被ばく線量は最大一二九・八ミリシーベルト、最小で五・二ミリシーベルトである。』(東京新聞、2011年5月9日)
ラッキー博士や稲恭宏博士の「ホルミシス学派」は内部被曝の問題を十分に検証しているとは言い難い状況にあると言わざるを得ないが、少なくとも被曝関数はLNT学派が言うような「線形」ではなく、「しきい値」を形成しようとするかのような曲線を描いているであろうことは確かだろう。マウスを使った放射能を経口摂取させる実験では、そのような仮説を示せるだけの結果が示されているのではないかと思う。しかし、一方でヨーロッパの一部学派などは、内部被曝の問題を重く見て、むしろ低線量のリスクを高いとしていることも見逃せない。
いずれにしても、労働基準監督署が、被曝量において5.2mSVから129.8mSvによる癌化を労災認定したという現実は重い。低線量の被曝と癌化の因果関係を認めた判断が公式にある以上、やはり、政府・行政が「安全だよ」という念仏を唱え続けるだけでは、国民は納得できない。政府・行政は、「LNT仮説・確率的影響」、「ホルミシス」、「しきい値」の関係を、科学的にどのように統合し、より高度の公式見解を作っていくのか、を明らかにすべきである。このなかで内部被曝の影響問題も明らかになっていくだろう。したがって、今もなお、原発事故による農業への打撃について未だに臆面も無く「風評被害」(本当は「実被害」)という用語を用いているマスコミにも反省を求めておきたい。
しかし、この問題が複雑化している一つの理由は、癌化と放射線(低線量・率)の関係が、ファクト・ベースでは今も正確に分かっていない事である、と言えるだろう。「メルクマニュアル医学百科」によると、癌化のリスク・ファクターは多く、たとえば、放射線以外にも、遺伝、年齢、タバコ、産業廃棄物、食事、飲酒、感染(ウイルス・菌・寄生虫)が指摘されている。これらのリスク・ファクターを変数とした癌化関数は明らかになっていない。
したがって、「先祖に癌で死んだ人が多く、肉食で、時々暴飲し、運動嫌いで、ストレスを溜めやすく、よく風邪をひくような人」は、「先祖に癌で死んだ人が少なく、菜食中心で、お酒は嗜む程度、運動は適度に行い、ストレスを発散し、免疫がしっかりしている人」は、同じ量の放射線を浴びても、または同じ量の放射能を経口摂取しても、前者は癌になって、後者は癌にならない(むしろ、もっと元気になる)、ということも起こりうるであろう、ということなのであろう。当然に、妊婦、幼児、子どもの実効線量係数(放射能の影響の受けやすさ)というファクターもある。
こうしたバックグラウンドまで含めて、つまり、人間を、遺伝や生活の特性で分類したうえで、適切な対策が講じられてはじめて、科学的見解として十分なものに至るだろう。こうした特性による差別を無視して、何でも一律にしてしまい、「安全だ」「風評被害だ」と叫び続ける無責任は、後世において厳しく責任を問われることになるだろう。
――『わたくしは、福島原発事故が起こってから「1年に100ミリシーベルトまでは大丈夫だ」と言っている「その人たち」に、長い間、真逆のこと、つまり「1年に1ミリシーベルト以上は危ない」と教えられてきたのです。・・・放射線では確率論的に患者が発生するということを頭に叩きこんでおかなければならない・・・わたくしにこのように教えてくれた先生がたは、福島原発の事故が起こると突然、態度を翻し・・・たのです。・・・確かに個人的には、確率論的な患者の発生に対して批判的な学者もいましたけれども、全体としては完全に一致していたのです。・・・それを福島原発の事故が起こったからといって、急に180度転換するというのは極めて奇妙なことです。・・・できるだけ早く臨時大会を開き、「確率論的に患者が出るということを否定する」のか、もしくは「従来の立場を貫く」のか、その理由は何か、それを社会に発信しなければなりません。』(中部大学・武田邦彦「社会を混乱させる放射線医学・防御の専門家」)
しかし、武田先生の説明を聞くと、先生は自らの科学的立場(LNT仮説派・確率的影響派)を明らかにしており、その指摘は完全にフェアなものであるのに対して、科学的立場を手のひらを返すかのように変えた批判者の方がアンフェアであるように聞こえる。何度も指摘しているように、低線量・低線量率でも癌化を招くということを主張するLNT仮説派・確率的影響派は、(これが正しいか正しくないかは別にして、)科学的なコンセンサスが形成されていた。このコンセンサスに組していながら、今この瞬間に自らの科学的立場を明らかにせずに、手のひらを返すかのように無責任を発している専門家こそが卑怯である、と思う。武田先生は、科学者の責任として、LNT仮説・確率的影響説を踏襲するのか、否定するのか、を科学的に明らかにせよ、とおっしゃっているのである。
同じく、あの「涙」会見の東大大学院教授・小佐古敏荘先生に対する世間からの批判も強い。しかし、小佐古先生の問題提起に対して、東京新聞が、労働基準監督署の過去の見解を調べ、客観的な評価を加えた。これこそ、上記の科学的コンセンサスが、コンセンサスとして実際に運用されていたという証左ではないのだろうか。
――『福島県内の学校では、被ばく線量の暫定的な上限を年間二〇ミリシーベルトと設定している。この線引きに強い懸念を示し、涙ながらに「内閣官房参与」を辞任したのが、小佐古敏荘(としそう)東大大学院教授(放射線安全学)だ。・・・被ばくが原因で白血病などのがんを発症し、労災認定を受けた原発労働者は、七六年以降で十人いる。累積被ばく線量は最大一二九・八ミリシーベルト、最小で五・二ミリシーベルトである。』(東京新聞、2011年5月9日)
ラッキー博士や稲恭宏博士の「ホルミシス学派」は内部被曝の問題を十分に検証しているとは言い難い状況にあると言わざるを得ないが、少なくとも被曝関数はLNT学派が言うような「線形」ではなく、「しきい値」を形成しようとするかのような曲線を描いているであろうことは確かだろう。マウスを使った放射能を経口摂取させる実験では、そのような仮説を示せるだけの結果が示されているのではないかと思う。しかし、一方でヨーロッパの一部学派などは、内部被曝の問題を重く見て、むしろ低線量のリスクを高いとしていることも見逃せない。
いずれにしても、労働基準監督署が、被曝量において5.2mSVから129.8mSvによる癌化を労災認定したという現実は重い。低線量の被曝と癌化の因果関係を認めた判断が公式にある以上、やはり、政府・行政が「安全だよ」という念仏を唱え続けるだけでは、国民は納得できない。政府・行政は、「LNT仮説・確率的影響」、「ホルミシス」、「しきい値」の関係を、科学的にどのように統合し、より高度の公式見解を作っていくのか、を明らかにすべきである。このなかで内部被曝の影響問題も明らかになっていくだろう。したがって、今もなお、原発事故による農業への打撃について未だに臆面も無く「風評被害」(本当は「実被害」)という用語を用いているマスコミにも反省を求めておきたい。
しかし、この問題が複雑化している一つの理由は、癌化と放射線(低線量・率)の関係が、ファクト・ベースでは今も正確に分かっていない事である、と言えるだろう。「メルクマニュアル医学百科」によると、癌化のリスク・ファクターは多く、たとえば、放射線以外にも、遺伝、年齢、タバコ、産業廃棄物、食事、飲酒、感染(ウイルス・菌・寄生虫)が指摘されている。これらのリスク・ファクターを変数とした癌化関数は明らかになっていない。
したがって、「先祖に癌で死んだ人が多く、肉食で、時々暴飲し、運動嫌いで、ストレスを溜めやすく、よく風邪をひくような人」は、「先祖に癌で死んだ人が少なく、菜食中心で、お酒は嗜む程度、運動は適度に行い、ストレスを発散し、免疫がしっかりしている人」は、同じ量の放射線を浴びても、または同じ量の放射能を経口摂取しても、前者は癌になって、後者は癌にならない(むしろ、もっと元気になる)、ということも起こりうるであろう、ということなのであろう。当然に、妊婦、幼児、子どもの実効線量係数(放射能の影響の受けやすさ)というファクターもある。
こうしたバックグラウンドまで含めて、つまり、人間を、遺伝や生活の特性で分類したうえで、適切な対策が講じられてはじめて、科学的見解として十分なものに至るだろう。こうした特性による差別を無視して、何でも一律にしてしまい、「安全だ」「風評被害だ」と叫び続ける無責任は、後世において厳しく責任を問われることになるだろう。
テーマ : ほっとけない原発震災
ジャンル : 政治・経済
青山繁晴・独立総合研究所所長の福島原発への訪問
青山繁晴・独立総合研究所所長の福島原発への訪問と、吉田昌郎・福島第一原発所長へのインダビューが話題となっている。これは本当の意味で、現地・現場へ行き、メディアで報告した、唯一といっていいだけの事例なのではないだろうか。
青山所長の熱弁と、吉田所長に対する熱い、高い評価が、「現場の重要性」を私たちに改めて感じさせてくれたように思う。You Tubeでこのレポートを拝見し、はじめてリアリティの一部に触れることができた気がする。そして、現場に近づかず、安全なところから非現実的な事ばかりを言っている、政府・行政や東電首脳に対する、人間達の「怒り」が強く、伝わってきた。
責任をウヤムヤにしようとすることに汲々とする首脳に対して、現場の方々は「人災」による事故のこれ以上の悪化を食い止めるために、現場の持てる力を最大限にふりしぼって下さっている。現場が指摘する、防波堤構築と5・6号機付近の湧水の問題や、その他の現場の能力限界を超える対策については、首脳が責任を持って最高度の支援をして欲しい。
※ ※ ※
今回の事故が最初は「天災」によって引き起こされたものとはいえども、チェルノブイリと同じレベル7に至るまでに深刻化させたのは「人災」であるという評価が、世間ではもはや当たり前となっている。産経新聞の4月9日の記事「原発事故7場面検証」では、「人災」と呼ぶべき、いくつかのポイントが挙げられている。
まず、第一に、地震による大津波、電源喪失の可能性が設計思想に活かされていなかったということ。これらのリスクを既に地震前に指摘していた専門家もおり、「想定外」という言葉は言い訳にならない。電源喪失は炉心の冷却ができなくなっただけではなく、ベント(排気)の遅れの原因にもなったと指摘されている。
第二は、東電首脳が廃炉を惜しんで海水注入が遅れたということ。このことも各専門家によって随所で指摘されており、早急なる対応ができなかったことが本当に悔やまれる。第三は、既存設備復旧に固執して、新たな外部冷却装置を構築する(空輸も可能という指摘もある)という判断が遅れたこと。
――『「東電や政府には物事の先を見通す勘をもった人間がいないのではないか」・・・大阪大学の宮崎慶次名誉教授は、こう総括した。』(産経新聞)
その他については、事態が悪化してしまった後のことなので、ほとんど現場の力だけでは対応不可能であり不可避であったと言えるだろう。燃料プールが放置され爆発を招いたこと、注水した冷却水が漏出したこと、などが指摘されている。
※ ※ ※
ブログ「もぎせかブログ館」では、青山所長のレポート紹介文の冒頭に、以下の引用をされている。現在の私たちの感情を表現してくださっていると思う。
――『「日本軍の下士官と兵士は頑強で勇敢であり、青年将校は狂信的な頑強さで戦うが、高級将校は無能である」――ノモンハン事件(1939)の際、ジューコフ司令官からスターリンへの報告』(ブログ「もぎせかブログ館」)
この事件の真相も、正確に後世に語り継がれるべきであるように思う。
青山所長の熱弁と、吉田所長に対する熱い、高い評価が、「現場の重要性」を私たちに改めて感じさせてくれたように思う。You Tubeでこのレポートを拝見し、はじめてリアリティの一部に触れることができた気がする。そして、現場に近づかず、安全なところから非現実的な事ばかりを言っている、政府・行政や東電首脳に対する、人間達の「怒り」が強く、伝わってきた。
責任をウヤムヤにしようとすることに汲々とする首脳に対して、現場の方々は「人災」による事故のこれ以上の悪化を食い止めるために、現場の持てる力を最大限にふりしぼって下さっている。現場が指摘する、防波堤構築と5・6号機付近の湧水の問題や、その他の現場の能力限界を超える対策については、首脳が責任を持って最高度の支援をして欲しい。
※ ※ ※
今回の事故が最初は「天災」によって引き起こされたものとはいえども、チェルノブイリと同じレベル7に至るまでに深刻化させたのは「人災」であるという評価が、世間ではもはや当たり前となっている。産経新聞の4月9日の記事「原発事故7場面検証」では、「人災」と呼ぶべき、いくつかのポイントが挙げられている。
まず、第一に、地震による大津波、電源喪失の可能性が設計思想に活かされていなかったということ。これらのリスクを既に地震前に指摘していた専門家もおり、「想定外」という言葉は言い訳にならない。電源喪失は炉心の冷却ができなくなっただけではなく、ベント(排気)の遅れの原因にもなったと指摘されている。
第二は、東電首脳が廃炉を惜しんで海水注入が遅れたということ。このことも各専門家によって随所で指摘されており、早急なる対応ができなかったことが本当に悔やまれる。第三は、既存設備復旧に固執して、新たな外部冷却装置を構築する(空輸も可能という指摘もある)という判断が遅れたこと。
――『「東電や政府には物事の先を見通す勘をもった人間がいないのではないか」・・・大阪大学の宮崎慶次名誉教授は、こう総括した。』(産経新聞)
その他については、事態が悪化してしまった後のことなので、ほとんど現場の力だけでは対応不可能であり不可避であったと言えるだろう。燃料プールが放置され爆発を招いたこと、注水した冷却水が漏出したこと、などが指摘されている。
※ ※ ※
ブログ「もぎせかブログ館」では、青山所長のレポート紹介文の冒頭に、以下の引用をされている。現在の私たちの感情を表現してくださっていると思う。
――『「日本軍の下士官と兵士は頑強で勇敢であり、青年将校は狂信的な頑強さで戦うが、高級将校は無能である」――ノモンハン事件(1939)の際、ジューコフ司令官からスターリンへの報告』(ブログ「もぎせかブログ館」)
この事件の真相も、正確に後世に語り継がれるべきであるように思う。
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ジャンル : 政治・経済
実体とイメージについて
本来のあるものが有している「実体」と、それを見たり聞いたりする人が頭の中に形成する「イメージ」の「違い」とは何であろうか。
伝達は、限定されているがゆえに、当然に、その二者(実物とイメージされた物)は、異なるものにならざるを得ないだろう。しかし、この二者の姿をなるべく近づけようと努力することは正しいことなのだろうか。必ずしも、それは正しいことであるようには思えない。
なぜなら伝達は、限定されているから、元の実体の持つ多くの情報は捨象されるところが多く、過小評価されることが多いためである。
伝達は、どうしても、限られた時間内で、限られた表現方法で行われるために、正確、精確に伝えようと努力すればするほどに、元の実体は歪められ、貶められる傾向にあるのではないだろうか。
元の実体が、すばらしく豊かで深い内実を持っているとき、それが無限に近いものであるほどに、誠実な、写実的な技法による表現伝達は効能を持たないだろう。
したがって、もっと大胆で、芸術的な方法で、相手の想像力を喚起するような簡単なきっかけを幾つか与えることで、見たり聞いたりする人が主体的に豊かなイメージを心の中に形成させることが必要なのではないか。
そうすることでしか元の実体に伍せるような大きさ、深さを持ったイメージにはならないように思うのである。
――『人間は、宗教的である間だけ、文学と芸術において生産的である。』(「ゲーテ格言集」新潮文庫)
伝達は、限定されているがゆえに、当然に、その二者(実物とイメージされた物)は、異なるものにならざるを得ないだろう。しかし、この二者の姿をなるべく近づけようと努力することは正しいことなのだろうか。必ずしも、それは正しいことであるようには思えない。
なぜなら伝達は、限定されているから、元の実体の持つ多くの情報は捨象されるところが多く、過小評価されることが多いためである。
伝達は、どうしても、限られた時間内で、限られた表現方法で行われるために、正確、精確に伝えようと努力すればするほどに、元の実体は歪められ、貶められる傾向にあるのではないだろうか。
元の実体が、すばらしく豊かで深い内実を持っているとき、それが無限に近いものであるほどに、誠実な、写実的な技法による表現伝達は効能を持たないだろう。
したがって、もっと大胆で、芸術的な方法で、相手の想像力を喚起するような簡単なきっかけを幾つか与えることで、見たり聞いたりする人が主体的に豊かなイメージを心の中に形成させることが必要なのではないか。
そうすることでしか元の実体に伍せるような大きさ、深さを持ったイメージにはならないように思うのである。
――『人間は、宗教的である間だけ、文学と芸術において生産的である。』(「ゲーテ格言集」新潮文庫)
小佐古敏荘・東京大大学院教授の「涙」
小中学校の屋外活動を制限する放射線量の目安が「20mSv」となったことに対する、小佐古敏荘・東京大大学院教授の「涙」の会見は、日本中に激震を起こした。
テレビでは、この「涙」のシーンばかりが報道され、センセーショナルな演出が強調されていた。これでは論点が、小佐古教授の人格性に焦点があたりかねない始末であり、小佐古教授が本当に訴えたかったことが何か、ということが曖昧になりかねない。私たちは、小佐古教授が本当に訴えたかった以下のポイントをしっかりと共有しておかなければならないと思う。
――『今回、福島県の小学校等の校庭利用の線量基準が年間20mSvの被曝を基礎として導出、誘導され、毎時3.8μSvと決定され、文部科学省から通達が出されている。これらの学校では、通常の授業を行おうとしているわけで、その状態は、通常の放射線防護基準に近いもの(年間1mSv,特殊な例でも年間5mSv)で運用すべきで、警戒期ではあるにしても、緊急時(2,3日あるいはせいぜい1,2週間くらい)に運用すべき数値をこの時期に使用するのは、全くの間違いであります。警戒期であることを周知の上、特別な措置をとれば、数カ月間は最大、年間10mSvの使用も不可能ではないが、通常は避けるべきと考えます。年間20mSv近い被ばくをする人は、約8万4千人の原子力発電所の放射線業務従事者でも、極めて少ないのです。この数値を乳児、幼児、小学生に求めることは、学問上の見地からのみならず、私のヒューマニズムからしても受け入れがたいものです。』(Web D!CE 2011-04-30 14:58)
私たちがまず知っておかなければならないことは、世界的なコンセンサスは(ファクトが明らかでない場合、もっとも安全率の高い案を採択するということもあり)、「LNT仮説」(確率的影響説)というものに基づくものになっている、ということである。これは低線量・線量率でも、長期間で見れば癌化を招くということであり、(特に子どもにとっては)安全なラインなど存在しないということである。
したがって、枝野官房長が「ただちに影響が無い」と表現した(長期の影響については言及しなかった)のは正しく、どなたかが「安全だ」と表現したのは(癌化リスクが高まる以上は)間違っている、ということになる。さらに、今回のこの悪名高い積算基準である「20mSv」は、今朝のニュース番組である専門家のコメンテーターが述べていたように、「安全基準値」などでは決してなく、「この水準までは避難せず我慢してくれ」という「がまん値」であるというのが(この立場が踏襲される限りは、)実態であろう。
専門家や政府・行政担当者は、右往左往しているだけのように見える。
彼らが、本当に「安全である」ということを言うためには、手続きが必要である。それは、現在の世界的コンセンサスである「LNT仮説」を否定し、将来発生するリスクのある癌化についても「しきい値」または「ホルミシス効果」が存在する(低線量・線量率では癌化が起こらない)という学説を採択しなければならない、ということなのではないだろうか。
今回の、この問題は、そういう、あたりまえの、「科学の立場を明らかにする」という作法を、彼らがまだ示していないことが大きく影響している。だから、起こるべくして起きたのだと思うのである。別の見方をすれば、日本人の責任回避の癖が如実に現れたものだとも言えるだろう。
もう一点、看過してならないことは、(これは、これまでも散々議論されてきているにも関わらず何も改善が見られない事項であるが)、「内部被曝」(大気・水道水・牛乳・野菜・魚・肉などの摂取による被曝)の問題が明示されていないことである。小佐古教授が「この数値を乳児、幼児、小学生に求めることは、学問上の見地からのみならず、私のヒューマニズムからしても受け入れがたいものです」と述べられたのは、(表土からの高さということもあるが、)この「内部被曝」も問題にしているためだと思われる。
空間線量率(空気吸収線量率)の基準が「20mSv」(屋内16時間・屋外8時間の前提で3.8マイクロシーベルト/時に相当)とされたが、この「内部被曝」量を積算すると、どれだけの被曝量合計に達するのか、ということについて、行政・政府やこれに関係する専門家は、絶対に口をつぐんではならないと思う。
この問題は、世間で広く使われ始めた「風評被害」という用語にも現れている。「風評被害」というのは、「本当は安全なのに、根も葉もない噂によって危険だと言われることで、蒙る被害」の意味だということだと思う。そうすると、何だか、政府・行政が発表する正規の情報(?)以外の情報に踊らされている私たち消費者が悪いみたいである。
しかし、冷静に考えてみれば、ここで言う「本当は安全だ」という前提自体が、上記の理由から成立していないことが分かる。つまり、用語としておかしい。
もっとも現状を表現していて正確な用語は、「風評被害」ではなく「実被害」ではないだろうか。なぜなら、原発事故によって、ベントや水素爆発、汚染水流出によって、放射能が撒き散らされ、各地の土壌にフォールアウト(放射能降下)したことは明らかなのであり、「LNT仮説」に基づく限りは(この学説を採択する立場をとる限りは)、どんな少量でも発癌発生リスクを伴うからである。
ここでもまた、日本人の責任回避の癖が如実に現れている。
政府・行政が、本当に、国民に対して「安全だ」と安心させたいのならば、現在の世界的コンセンサスである「LNT仮説」を否定し、将来発生するリスクのある癌化についても「しきい値」または「ホルミシス効果」が存在する(低線量・線量率では癌化が起こらない)という学説を本気で議論するべきではないか。責任を回避することばかりを考えるべきではない。
テレビでは、この「涙」のシーンばかりが報道され、センセーショナルな演出が強調されていた。これでは論点が、小佐古教授の人格性に焦点があたりかねない始末であり、小佐古教授が本当に訴えたかったことが何か、ということが曖昧になりかねない。私たちは、小佐古教授が本当に訴えたかった以下のポイントをしっかりと共有しておかなければならないと思う。
――『今回、福島県の小学校等の校庭利用の線量基準が年間20mSvの被曝を基礎として導出、誘導され、毎時3.8μSvと決定され、文部科学省から通達が出されている。これらの学校では、通常の授業を行おうとしているわけで、その状態は、通常の放射線防護基準に近いもの(年間1mSv,特殊な例でも年間5mSv)で運用すべきで、警戒期ではあるにしても、緊急時(2,3日あるいはせいぜい1,2週間くらい)に運用すべき数値をこの時期に使用するのは、全くの間違いであります。警戒期であることを周知の上、特別な措置をとれば、数カ月間は最大、年間10mSvの使用も不可能ではないが、通常は避けるべきと考えます。年間20mSv近い被ばくをする人は、約8万4千人の原子力発電所の放射線業務従事者でも、極めて少ないのです。この数値を乳児、幼児、小学生に求めることは、学問上の見地からのみならず、私のヒューマニズムからしても受け入れがたいものです。』(Web D!CE 2011-04-30 14:58)
私たちがまず知っておかなければならないことは、世界的なコンセンサスは(ファクトが明らかでない場合、もっとも安全率の高い案を採択するということもあり)、「LNT仮説」(確率的影響説)というものに基づくものになっている、ということである。これは低線量・線量率でも、長期間で見れば癌化を招くということであり、(特に子どもにとっては)安全なラインなど存在しないということである。
したがって、枝野官房長が「ただちに影響が無い」と表現した(長期の影響については言及しなかった)のは正しく、どなたかが「安全だ」と表現したのは(癌化リスクが高まる以上は)間違っている、ということになる。さらに、今回のこの悪名高い積算基準である「20mSv」は、今朝のニュース番組である専門家のコメンテーターが述べていたように、「安全基準値」などでは決してなく、「この水準までは避難せず我慢してくれ」という「がまん値」であるというのが(この立場が踏襲される限りは、)実態であろう。
専門家や政府・行政担当者は、右往左往しているだけのように見える。
彼らが、本当に「安全である」ということを言うためには、手続きが必要である。それは、現在の世界的コンセンサスである「LNT仮説」を否定し、将来発生するリスクのある癌化についても「しきい値」または「ホルミシス効果」が存在する(低線量・線量率では癌化が起こらない)という学説を採択しなければならない、ということなのではないだろうか。
今回の、この問題は、そういう、あたりまえの、「科学の立場を明らかにする」という作法を、彼らがまだ示していないことが大きく影響している。だから、起こるべくして起きたのだと思うのである。別の見方をすれば、日本人の責任回避の癖が如実に現れたものだとも言えるだろう。
もう一点、看過してならないことは、(これは、これまでも散々議論されてきているにも関わらず何も改善が見られない事項であるが)、「内部被曝」(大気・水道水・牛乳・野菜・魚・肉などの摂取による被曝)の問題が明示されていないことである。小佐古教授が「この数値を乳児、幼児、小学生に求めることは、学問上の見地からのみならず、私のヒューマニズムからしても受け入れがたいものです」と述べられたのは、(表土からの高さということもあるが、)この「内部被曝」も問題にしているためだと思われる。
空間線量率(空気吸収線量率)の基準が「20mSv」(屋内16時間・屋外8時間の前提で3.8マイクロシーベルト/時に相当)とされたが、この「内部被曝」量を積算すると、どれだけの被曝量合計に達するのか、ということについて、行政・政府やこれに関係する専門家は、絶対に口をつぐんではならないと思う。
この問題は、世間で広く使われ始めた「風評被害」という用語にも現れている。「風評被害」というのは、「本当は安全なのに、根も葉もない噂によって危険だと言われることで、蒙る被害」の意味だということだと思う。そうすると、何だか、政府・行政が発表する正規の情報(?)以外の情報に踊らされている私たち消費者が悪いみたいである。
しかし、冷静に考えてみれば、ここで言う「本当は安全だ」という前提自体が、上記の理由から成立していないことが分かる。つまり、用語としておかしい。
もっとも現状を表現していて正確な用語は、「風評被害」ではなく「実被害」ではないだろうか。なぜなら、原発事故によって、ベントや水素爆発、汚染水流出によって、放射能が撒き散らされ、各地の土壌にフォールアウト(放射能降下)したことは明らかなのであり、「LNT仮説」に基づく限りは(この学説を採択する立場をとる限りは)、どんな少量でも発癌発生リスクを伴うからである。
ここでもまた、日本人の責任回避の癖が如実に現れている。
政府・行政が、本当に、国民に対して「安全だ」と安心させたいのならば、現在の世界的コンセンサスである「LNT仮説」を否定し、将来発生するリスクのある癌化についても「しきい値」または「ホルミシス効果」が存在する(低線量・線量率では癌化が起こらない)という学説を本気で議論するべきではないか。責任を回避することばかりを考えるべきではない。
テーマ : ほっとけない原発震災
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